葦道山夢不動尊(あしどうさんゆめふどうそん)
中河内にある葦道山のお不動様の話です。明治のころ、中河内にとくばあさんという人が住んでいました。とくばあさんは、からだが弱く、ねたりおきたりの、生活をしていました。右手はくの字型にまがり、手首には、大きなこぶができていました。このこぶが、ずきずきと毎日いたみ、とくばあさんの顔は苦しそうでした。ある暖かな春の日の夜のことです。めずらしく、とくばあさんは、こぶの痛みも忘れて、ぐっすりねこんでいました。そのとき、夢の中に一人の坊さんがあらわれました。
「わしは、五百年前、葦道山の寺にいたものだが、井戸におちこんで出られないでいるから、助け出してくれ。」
手を合わせながら、必死にいうのです。そして坊さんは、ふっと消えてしまいました。
「不思議な夢をみたものだ。」
とくばあさんは、しばらくぼんやりとふとんの上にすわっていました。朝ごはんを食べていても、夢で見た坊さんのことが気になってしかたありませんでした。
「よしっ思い切って山へ登り、寺の井戸をさがしだしてみよう。」
とくばあさんは、杖をつきつき葦道山へ向かって歩いていきました。
「おばあさん、どこへ行くんだい。?」
近所の子どもたちがよってきました。やさしいとくばあさんは、子どもたちにも人気がありました。
「葦道山の寺にあったという井戸をみつけにいくんじゃよ。」
「わぁい、おらたつもいきたい。」
「いっしょにいって、井戸をみつけてあげるよ。」
とくばあさんと子どもたちは、葦道山へ登っていきました。夢の中の坊さんがいった言葉をたよりに、山の中をあちこちさがしまわりましたが寺らしきものは、なかなか見あたりません。
そのうち日も西に傾き始めてきました。
「とくばあさん、井戸なんてほんとにあるのかい。」
「もう、つかれちゃったよ。」
子どもたちは、くちぐちにいいはじめました。
「ほんにそうだ、井戸なんて、最初からないのかもしれん、もう帰るまいか。」
と、とくばあさんが、よっこらしょと腰をあげたときです。
「あっ!あったぞ。」
ひとりの子どもの叫び声があたりの山にこだましました。みんな、急いでかけよっていきました。井戸のあとらしきものには、落葉やどろが、ぎっしりとつまっていました。
「ここを、みんなしてほっておくれ。」
とくばあさんのたのみで、子どもたちは、棒や手で、砂や落葉をほりだしました。すると、下の方から、お不動様があらわれました。
「夢のおつげのとおりじゃ。」
とくばあさんは、地面にぺたりとすわりこみ、お不動様をおがみながら、般若心経を、くり返しとなえはじめました。
「おかわいそうに、おかわいそうに。」
もっていた手ぬぐいで、どろまみれのお不動様をきれいにふき清めました。とくばあさんの顔は、なみだでくしゃくしゃになっていました。子どもたちは、そんなとくばあさんの姿をただびっくりして見ているだけでした。
そのころには日もしずみ、あたりはうす暗くなっていました。お不動様を井戸のそばの平らな石の上におき、帰ることにしました。翌日から、とくばあさんは、お洗米やお線香をもってお不動様まいりを続けていました。すると、今まであれほどいたかった右手のこぶもいつのまにかなくなり、まっすぐなうでになりました。とくばあさんは、すっかり元気になったのです。このうわさは、たちまち村中にひろがりました。そのうち、隣村や隣町からも、大勢おまいりする人がつめかけました。とくばあさんの夢にあらわれたことから、夢不動とよばれるようになりました。きれいにほりおこした井戸から、あふれでてきた水は、手もきれるほど冷たく、清らかな霊泉として尊ばれました。
戸板にのってきたような重い病の人がこの水をのむと歩いて帰っていったとか、盲目の人の目がみえるようになったとか、いろいろなうわさがたちました。不思議なお不動様のうわさを聞き、三河地方だけでなく、名古屋、長野、静岡からも、われもわれもと人がつめかけました。一時はお不動様への道には、のぼりや店がたちならび、繁華街のようなにぎやかさでした。
夢不動様のにぎわいはわずか半年足らずで終わりましたが、その間に集まったお賽銭の多さに村人はおどろきました。このお賽銭をもとに、明治35年12月に、細沢連川の下流の観音堂の境内に石造のお不動様をたてました。台座とも十尺(約3メートル)の不動尊像は静かに、細沢連川のせせらぎをみおろして、村人の平和を祈っているともいわれます。今も、おまいりする人や願かけにくる人をみることができます。