つくでの昔ばなし

村制施行八十周年を記念して発刊された一冊。

犬千代サ(いぬちよさ)

 作手村の川手に菅沼教氏(すがぬまのりうじ)という人が住んでいました。この人は犬のように鼻がきいて、何事も見逃さない鋭い目を持っていました。猪や鹿などの跡を探すことには、人よりすぐれた力を持っていたことから、世間の人たちはいつのまにか犬千代サと呼ぶようになりました。山の中では体を前かがみにして、小きざみに歩き、いばらの中をくぐりぬけるようすも犬ににていました。
 犬千代サの家には、男四人、女三人の子どもたちがいたにで、障子は破れ放題、道からは、家の中が、まる見えでした。戸間口(家の入り口)を入るとすぐのへやには、米を入れたカマスが四つ五つ並べてあり、そのカマスの上には、脱ぎすてた着物が散らばっていました。
 座敷の仕切戸には、犬千代サの命の次に大切にしている猟銃が立て掛けてあり、そばには銃や背負袋がおいてありました。
 戸間口の板囲いには釣竿が五、六本かけてあり、魚篭も二つくらい引っかけてあって、釣り好きな犬千代サの家らしい様子がうかがえるのでした。
 犬千代サは、
「おらァ、この鉄砲で猪をどえらいこと射ったもんだ。あと45頭で三千ちゅう勘定になる。」
と、よく自慢話をしました。
 十五、六のころから猪うちをしたといっていたから、約六十年間に三千頭というと、年平均約五十頭射った計算になるので、おおげさないい方でした。しかし、猪うちの名人として、奥三河一帯に名が知れ渡っていた犬千代サの口から聞かされると、そうかもしれないと錯覚を起こすほどでした。
犬千代サのいつもの猪うちの場所は、本宮山でした。毎年、冬になると一宮町や額田町に宿を決めて、そこから本宮山へ猪うちに出かけて、冬中、家に帰らないことがよくありました。本宮山の一の窪に追い込んだ猪は、必ず犬千代サに仕留められました。
「おらぁ、一発で二頭仕留めたこともあるぞ。二頭並んで歩いている奴を、横っ腹をねらってブッ放したら、見事にたおれたぞ。」
 まさに、犬千代サならではできない芸当であります。
 こんな名人芸の犬千代サでも、九死に一生を得たような危険に出会った事もあったそうです。猪のすぐ近くで射った弾が、猪の急所をはずれたために、猛り狂った猪が向かってきたので犬千代サは、とっさにそばにあった松の木に飛び上がりました。しかし松の木が低くて犬千代サの足に届きそうなのです。猪がグルグルまわって、いまにも噛みつきそうにするので、片手で山刀を振りまわしてはいたものの、生きた心地はしなかったそうです。
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 また、こんな話もありました。
 鳳来町只持あたりの山で、一組の猪うちたちが、ネヤ(ねぐら)にねていた大猪を見つけました。六名ばかりの仲間の中に犬千代サも入っていました。
「今日の猪追いは俺にまかしてくれんかい。みんなはここで見物しておれよ。」
と、犬千代サがいいました。仲間は、犬千代サの猟の腕前を見ようと、たき火を囲んでいました。仲間から離れた犬千代サは、猪のネヤを中心にして周囲をグルグルまわりながら、得意の義太夫のさわりをうたい始めました。うたいながら猪を囲む輪を次第に縮めていきました。猪は義太夫の声があちらからも、こちらからも聞こえてくるので、どちらへにげたらよいか戸惑ってしまったらしく、じっとすくみ込んでいました。五間(10メートル)ばかりの距離に近づいた犬千代サは、猪の頭をねらって鉄砲をブッ放しました。こうして一発で仕留められた大猪を見て、この日の犬千代サの作戦には、仲間たちも驚き、
「さすが犬千代サ。」
と、大声で喜び合いました。
 また、ある時は、猪うちの仲間が、六〜九尺(2〜3メートル)もあるシダの生い茂っている中にうずくまっている大猪をとり囲んだことがありました。猟犬も中に入ることができず、周囲を取り巻いているばかりでした。この時、犬千代サは上着を脱いで、もも引だけの姿になりました。猪の正面からシダをかきわけてすすみ、約六尺(2メートル)の近距離に近づいて、猪の頭をねらって一発ブッ放すと同時に、体を横に倒しました。これは、もし猪が突進してきても、さけられることができる構えでしたが、幸い、大猪も彼の一発によって仕留められたのでした。
 この大胆な彼の振る舞いは、仲間の話題になったものでした。
 犬千代サのかしこい一面も語り伝えられています。彼は、猪のふみつけた草の状態や、草を食いちぎった切り口の状況なども細かに調べて、猪がきょう出たか、きのう通ったかなどを見わけることができました。また、土の柔らかい段戸山の猪は後足のヒヅメがすりへっているなど、細かく観察して、どの方向に向かうかなどを考えたり、足あとの土の乾き具合から、いつごろ猪が通ったかを見わけることができました。科学的な考えに基づいて、作戦計画をたてたところに彼の名人芸が生まれたものでしょう。
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 冬の猪うちが終わると、春から夏のおわりまでは、犬千代サの仕事場は川にうつります。
「巴川や寒狭川は、おれにとっては自分の池のようなもんだ、どこの淵には、アメノウオが何尾いるかなども、おれには、すべてわかるのだぞ。」
と、話します。これもすべて信じることはできないにしても、他の村人よりは、細かく知っていたのでした。
 近所の家で、祝言に使う、八寸(25センチ)ぐらいのアメノウオを50尾そらえてくれとたのまれると、いわれた日までには、きちんとそろえて持ってきてくれました。
 彼が釣りをしている時に小さな魚がかかってくると、
「なあんだ、小さいな、もう少し飼っておくだな。」
といって川へにがしてやったということもあったそうです。
 鯉やうなぎも、彼にねらわれるとのがれることはできなかったらしいのです。新城の弁天淵で釣りをしたhとたちは、何かわからないものに釣り糸を切られることがしばしばありました。
「何かでかいものがおるぞ。」
といっている釣り仲間の話を聞いて、犬千代サは、
「俺が退治してやる。」
といって出かけていきました。犬千代サは、大きな引っかけ針をもって淵底にもぐっていきました。
 どす暗い水底には大きな岩穴があり、めざす獲物がひそんでいるのを見つけました。それは、三尺(1メートル)を超える大鯉でした。犬千代サは、しっかりとにげられないように大鯉をとらえると、やっとの思いで水面に浮かびあがってきました。集まってきた釣
人たちもいままで見たこともない大鯉に舌をまいたそうです。
 犬千代サは、百姓仕事は女房のお松にまかせっきりで、狩りや魚釣りに明け暮れていました。女手一つで田畑の耕作をきり回していたお松は、毎日目の回るような忙しさでした。子どもたちの世話などなかなか手が回りませんでした。子どもたちは年中冬でも薄着で、裸足で遊んでいました。
 春になると、さっそく、子どもたちは家の前の巴川へ飛び込んで水泳ぎをはじめました。それでも風邪をひくことなどめったにありませんでした。
「おらがの子どもは、父ちゃんのとってきた肉や魚をふんだんに食べとるでじょうぶだい。風邪なんか引くものかい。」
と、お松は、いつも得意気に語っていました。
 犬千代サは器用な男でした。とてもじょうずに字を書くので、一時、村役場に勤めたことがありましたが、
「こんなことは俺の性に合わん。」
といってじきにやめてしまいました。
 芝居は彼の道楽でした。実弟の玉さも芝居好きでした。地狂言(歌舞伎)では犬千代サと玉さは人気役者としてさわがれたものでした。