つくでの昔ばなし

村制施行八十周年を記念して発刊された一冊。

荒原(あわら)の明神池(みょうじんいけ)

 本荒原の南に,白鳥神社がまつってあります。そのそばに,池があり,これを,明神池と,よんでいます。
 昔の明神池は,たいそう深く,南は一鍬田(新城市)のカイクラ淵に通じ,東は滝川村(旧長篠村)の大滝に通じておりました。そして,この三か所を,大きな竜が行き来していました。
 ある年のことです。何日も何日も雨の降らない日が続きました。
「ぼちぼち田植えをせにゃならんというのに,水がないのー。」
「ほんにのー。このままじゃ,田植えどころか,わしらの飲む水さえ,のうなってしまいそうじゃのー。」
「こまったことだ。一体どうすりゃいいんだ。」
「そういえば,じいちゃんに聞いたんだがのん。明神池で雨乞いをすると,どんな晴天続きのときでも,必ず編めが降るそうな。」
「そういえば,わしも聞いたことがある。ここんとこ水にこまることもなかったが,以前は,たびたび水に困ったそうな。そんときは,明神池で雨乞いをしたらしいぞん。
「へぇー,そんなこと聞いたら,じっとは,しておれんのん。」
「そうだな。早いとこ,みなと相談して,雨乞いの準備をしまいかん。」
 さっそく,村人たちが大勢集まり,雨乞いをしました。すると,たちまち雨が降り,田植えも無事すみ,その年は,豊作となりました。
 こうして,雁峰山下,三十一か村を潤す場所として,明治15年ころまで,毎年のように,水にこまらないようにと,祈願されたそうです。
 これは,明神池に住んでいた,大きな竜のおかげだったのです。
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 ところが,ある年のことです。八名郡塩沢村(新城市)に,猿屋六郎衛門という人がいました。ある日猿を連れて,布里村の七久保へ,いくことになりました。途中,道端で休んでいると,どこからか,蛇が出てきました。そして,猿屋が連れていた小猿に,。猿屋は驚いて,持っていた小刀で,蛇の顔をつきました。すると蛇はたちまち竜となり,傷口から血を流しながら,大滝のほうへ,逃げていきました。その後,明神池には,竜がいなくなったのです。そして,この年から,いくら雨乞いをしても,雨が降らなくなってしまいました。
「やはり,猿屋が小刀で刺した蛇というには,明神池の竜だったに,ちがいない。」
「それじゃぁ二度と人間の頼みごとなぞ,聞いてもくれんだろうのん。」
「これからは,どうすりゃいいんだん。」
 人々はこんなことをいいながら,何とかならないものかと,明神池のまわりに,集まって着ました。ふと見ると,蛇の骨が,どろにまみれて落ちていました。
「この蛇の骨でも,きれいに洗ったら,許してもらえんものだろうか。」
 だれともなしに,こんなことをいい出したのです。ダメでもともと,と明神池の水で,蛇の骨を洗いました。ところが,どうでしょう。今度は激しい大雨となり,山が崩れあちこちで,大変な被害がで出たのです。村人は,明神池にいた,竜の怒りだろうといって大変恐れたということです。
 また,明神池とカイクラ淵については,次のような話もあります。
 昔,荒原長者に,可愛いい一人娘がありました。長者は,手伝いのひとをお供につけて,娘を真国村(旧東郷村)の寺へ通わせていました。お寺でいろいろ学ばせ,その行き帰りには,雁峰山の頂上の岩の上で稚児舞いの稽古をさせていました。今でも,この岩をちご岩と呼んでいます。
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 ある時,この娘が家出をして,行方不明になってしまいました。長者は,八方手をつくして探しましたが,どうしても見当たりませんでした。あまりに落胆した長者は,気がふれ,娘の名を呼び歩くようになりました。そしてついには,家宝である金の茶釜を頭にかぶり,明神池に,身を投げてしまいました。
 しばらくして,金の茶釜は,一鍬田のカイクラ淵に,浮かびましたが,長者の姿は,どこにも,浮かびませんでした。
 そして,いつしか長者の家も亡んでしまったのでした。